新米試食~『手間』をかけるということ

久しぶりのブログ更新となってしまいました。

先日倒れまくった稲を刈り、それがお米となりました。新米の味はいかに・・・。

ピカピカ光ったお米を前にして

稲穂が地面に横たわるようにして倒れていたため、お米に石が紛れていないか心配でしたが、全く問題ありませんでした。

見た目、炊きあがりは、新米特有のツヤ・照りがありピカピカ光っていました。

口に入れゆっくり噛み始めると、舌ざわりがよく「おお~なめらか~」というのが第一印象でした。

そして時間差で甘味もしっかり感じられ、子供の頃から食べている『うちのお米の味』でした!

口にするまでの全工程に参加させてもらった初のお米、感慨深いものでした。

今年の体験を通して感じたこと

今までお米を「食べる」工程だけしていました。「育てる」工程を飛ばし、言わば『美味しいトコ取り』していたわけです。

私は想像力が乏しい人間なので、やはり実際体験することによって、食べるまでの工程で沢山の『手間』がかかっていることを改めて知りました。

この『手間』を一緒にいただいているのだと思いました。

先程も申し上げたとおり、『感慨深い』ものでした。新米を噛みながら、それこそ走馬灯のように(笑)、今までの色々なハプニングや出来事を思い出すんです。
トラクターで田耕(たすき)をする時どんどん自分の意思とは裏腹に真っすぐ走らずズレていったことや、季節外れの秋雨前線が停滞してヤキモキしたこと、稲が横倒れになり田んぼを目の前にしてマンガのように『ギャー』と叫んだこと。

『育てる』というのは、こういうことなんだと、新しい発見をしました。

『手間』についての概念変わる!

私は30代で仕事上責任ある立場を任されて以降、『効率重視』で生きてきました。努力は学生まで、仕事は結果を出してこそ、と自分を鼓舞するうちに、自分でも気付かないうちに『手間をかけずいかに早く結果を出すか』それが絶対的な正解になっていました。『結果までの最短ルート以外をいかに省略できるか』に注力していたように思います。

しかし不思議なもので、効率よく同時進行で処理したという達成感は束の間、その分自由な時間を確保出来たはずなのに、ずっと忙しく気ぜわしいのです。いつも追われるように先のことばかり考えて『今、ここ』の感覚がなく、しんどいと感じていました。

米作りは、そんな私に新しい感覚を教えてくれました。『手間』とは「無駄な事」ではなく、「その人の人生を豊かにするもの」であること。

効率よくしてるつもりが、自然相手で思い通りに行かず、自分で全てをコントロールできません。

思わぬところで予想もしなかった手間が増えたりします。してる時は確かに思い通りにいかないので面白くなかったのですが、食べながら思い出すのはそういった『どうにもならなかった事』や『面倒くさかった事』なのです。

それに、手間をかけた分、口にするお米が『私にとって特別な唯一無二の』お米になるんです。
自分にとっての大切なものが増えるということは、『今』という瞬間に向き合え人生を豊かにすることだと思いました。

来年も米作り、挑戦したいと思います。体験が経験に変わるようになるまで新米の心を忘れず励みたいと思います!

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